行政書士法人 ワイズyamanaka

特集・コラム

お袋と昭和な小生

私が小学生の頃の自宅は、風呂のない平屋建て長屋で、大阪市と云うお役所が家主である、所謂市営住宅であった。国鉄東海道本線を走る特急つばめ号が、東京から大阪に向けて6時間強を要していたことから、新幹線と言う、とんでもなく早く走る電車が大阪東京間に登場し、東洋の魔女と異名を持った女子バレーボールが世界にその名を馳せた東京五輪、初めてアジアで開催されたその五輪前後のことで、小生な我が母、40歳を越えない辺りの頃である。当時の我が母、その美しき女性であった素敵な、そんな自負と自信と誇り高きと信じて疑わない小生、ここが私の書き下ろす最大にして最高の結果と根拠と原点である。


さて、一家四人が暮らすその空間は、六畳と四畳半及び台所の、フローリングと云う概念のない親父が借りたもので、外壁は、コンクリートブロックそのままをムキださせたものであった。
昭和前半の建築であろう。


何故か台風男と異名を持つ親父の借りた四人の巣、波板スレート葺の屋根は、とても魅力的とは言えないものであったと記憶している。内装は、コンクリートブロックに白いペンキを塗りたくったもので、味も素っ気もない。 トイレと云えば、当然の如くボットン便所、下水管などある筈も無く、月に一回来る汲み取り車を大人達は歓迎し、子供達は敬遠する。

暑さ寒さも彼岸まで、との言葉はあるが、その当てはまらない住宅仕様に、当然の如く意義を述べる余裕も理解も所得もないばかりか、感謝と謙虚という概念すら忘却させてしまう不思議な魅力があった。取り敢えずの庭の様なものはあったのだが、母屋に併設して、プレハブのハウスなるものを家主たる市に無断で建て、否、置き、共に使用していた。

所謂、母屋から続く建物としての増築なのであろうが、容積率も建ぺい率もヘッタクレもあったものではない。所有権は、建てた(あるいは購入した)親父なのか、大阪市なのか、未だに不明ではあるが、今更互いに何の利益もないことに、改めて何の感情も意義も意見もない。 勿論、建築確認など、ある様でなく、ない様であったのかな? と。当然に、登記などされていないことだろう。あれば驚嘆する。昭和30年代後半の話である。周りの皆さんも同じで、戦後復興が済みつつある高度経済成長突入直前の頃であり、24時間戦えるジャパニーズビジネスマンの居る日本列島が、まだ改造される前の風情、否情景であった。

ところで、前述した、何故に親父が台風男なのかというと、異常に好きなのである。台風が。
また、火事男とも言われていたが、台風が来るといえば目がギンギンに輝き、火事といえば何処にでも、氷を後ろに積める位の大型自転車を走らせて飛んで行ったと、母からの告げ口である。こういう親父を持つ兄と小生は、特に遺伝することなく育ったことに感謝する。

当然に母に、感謝、である。

そしてまた、労働者の煙草とされたハイライトという煙草が、20本入り1箱40円であった頃の当時の市営住宅の家賃は、2000円程度と聞いた記憶があるが、この様な状況裏、当時としての常識と言われる判断については、今にしては過酷な推測または憶測でしかない。また、この2000円が高いのか安いのか、安いのか高いのか、いずれであったのかは、最早、否、更に無意味に感じてしまうが、二人の聖徳太子が齎すその価格に、当時の我が家の状況が描写されている。あ、失敬、当時の千円札の肖像は、伊藤博文直前の聖徳太子であった。



また、当時は消費税たるものが存在しなかったので、税込みだとか税別だとかの言葉すらなかった時代で、二千円は、二千円であった。この事に違和感のある、バブル景気以後産まれの読者または24時間働けるジャパニーズビジネスマンや日本列島の改造を知らない読者には、何故か意味なく、甚だ申し訳ない限りである。

さて、我が家の風呂である。ある訳がない。夜7時半を過ぎれば、お袋が慌ただしく銭湯へ行くことを何故か急かし、小学校低学年であった私は、三つ半歳上の兄に連れられてよく行ったものだ。お袋が用意した桶を片手に、そしてその桶の中には石鹸とタオルだけではあるが、実はコソッと10円の硬化が3枚チャリンチャリン。公衆電話から何時間掛けても、日本国内どこへ掛けても、10円であった時の10円玉。 実は、その硬貨は、今も尚現役であり、使用されている。洗髪は、当時として液体シャンプーなどある筈もなく、石鹸そのままを頭になすりつけ、ゴシゴシ洗ったものである。故に、石鹸に、何故か親父と思われる髪の毛が所々付着しており、それを取り除く心意気と不快感が、不思議と高ぶりを感じていたことを記憶する。



また、片方の手には、替えの下着をクルクルとロールケーキ或いは巻き寿司又は海苔巻きの如く、巻いて包んだバスタオルを脇の下に挟んだ状態で持つ。こんな有様であったが、微笑ましい懐かしさと愛おしさが込み上げてくるのは、今、何故だろう。


当時の銭湯に於ける小人料金は、え??と、15円であったかな。中学生になると、中人(ちゅうにん)という妙な区分があり、25円程度であっただろうか、高校生までその料金が続く。大人料金は、35円乃至40円くらいであったか、今の10分の1程度より安いが、タバコの料金は当時の10倍を超えている様だ。タバコを吸わない小生には、その10倍はなぜか魅力的に感じる。そして、喫茶店の珈琲一杯の標準的な料金は2倍から3倍程度、ハガキ一枚の料金は6倍程度なのか、この差の大小は何故なのかと考えてしまう。消費税の有無と率の計算については、甚だ癪に障るので、考えないことにしよう。

銭湯に行くと、まずは下駄箱に穴の空いた靴を入れる。鍵は、木製の分厚い板で、その下部を縦に、線状に三箇所ほど切った鍵の様なものを抜き差しすることで、下足箱を開け閉めする。所謂、下足札という代物である。なんとも、古めかしい、当時でも浮世絵時代を思わせる一品であったが、低学年な小学生には、甚だ大きく、持ちづらい代物であっただろう。



中に入ると、必ずと言っていいほど、がめつそうなおばさんが眉間にシワを寄せ、笑顔なく番台に座っている。小学生の私の頭より遥かに高い位置にある番台である、兄ですら背伸びをして料金を支払っていた。二人で40円?であったろう入浴料金は、古臭いザラバンシをチョキチョキと切っただけの、そう、ハガキに貼る切手よりホンの少しだけ大きい券、の様なものであった。おそらく、回数券に類したものではなかったかと、今更ながらに思い起こしている。多分、古い方はご承知の、インクが滲み出る様なガリ版刷りであったことであろう。

さて、服をぱっぱと脱ぎ捨て、旧式の、金属製の、白いパンツのゴムの様なひも状の類がついた鍵を腕にはめ、早速白い目地が目立つタイル張りの浴室に入る。浴槽は、二つ。 浅く、座ったまんま、或いは横になってでも辛うじて溺れはしない、12~13平方米程度の肩まで浸かることのできる長方形のものと、その倍程度の大きさでやや深めの浴槽。やや深めの浴槽は、小学生の私には深く、背伸びはしないものの完全に立ったまんまの、直立状態での入浴を強いる。この状況裏に、大の大人が団子状態で入っている。肌と肌が触れ合うことも屡々であったろう、宛ら、大阪箕面の猿達、と云った風景であろうか。いやいや、箕面を知らない人には酷な表現である。失敬失敬。

さて、一頻り血液があったまった処で、兄に急かされて、時折チョロってしまうシャワーとカランの前に、あまり清潔とは思えない、黒ずんだプラスチック製で、中央部位が丸い穴あきの椅子に座る。木製の、穴あきではない代物もあるにはあったが、戦前からあるのかと思わせるほどの、余りに古過ぎる代物であり、臀部にソゲが刺さりそうなので使用を避けていた。いや、出来るだけ避ける様にと、兄から指示されていた様に記憶している。



勿論、何れの椅子に座る前には念入りに湯をかけ、洗浄に心掛けるのは、母の教えであった。何故だかは、よく解らないままに言っていたのが、今となっては至極当然であることに驚きはない。因みに、父は一度、何故か淋病になったと、成人してから兄から聞いたことがある。特に感想はないが、血は争えないと、最近になって感じることもある様で、恥ずかしい限りである。何故ここでその様に話すのかと、また血が争えないのかは、後談することにしよう。 いや、気が向けば、後談することとしよう。



泡の立たない掌より大きいサイズの石鹸を頭部に直接押し付け、ゴシゴシと頭を掻き毟るかの様に洗う。薄毛を気にする今では考えられないことではあるが、当時の私が教えられた通りの洗浄方法、或いは汚れに対する最大限の対処法、であったことを信じて疑わない。 しかし、これによって救われたか否かは、些か疑問が残る昨今である。頭部が終了すると、次は、当時として小さくても大きくなる可能性のあった、首から下部位の洗浄に移る。可能性があったというのも、その可能性が、結果として六割程度しか敢行されなかったためであり、実に悔しい。
あ、首から上も、その悔しい対象であった。更に、失敬失敬。



ま、それはともかくとして、洗浄には、頭部洗浄に使用した掌サイズの石鹸を、山田建設興業株式会社などと群青色に意味なく印刷されているタオルに塗りつけ、殆ど泡立たないのは承知の上で身体に走らせる。と、その時、後方からシャワーが勢いよく私の背中を直撃する。後方にも、洗い場があり、前後で同時に使っているとしばしばこういう目にあう。また、その時、後方の親父が、は、は、はっ、はあっくション?~と、同時に、ジュルーっと云う音と共に、背中に粘り気のあるものがシャワーの勢いを借りて飛んできて、私の背中をまたまた直撃する。撃というより、被弾したとの表現がピッタリくるのは、恐ろしい限りである。流石に、被弾した背中を隣の兄に流してもらい、この一難を乗り越える。とんでもない出来事なんだけど、そこいら中で行なわれている光景であり、何ら特異とした風景ではない事がまた、特異ではないかと思われるのだが、如何か。

さて、母親から、義務として課された全身の洗浄が終了すると、待ちに待った自由時間である。自由時間と言っても、狭い銭湯の中での自由時間であり、飛んで跳ねれるスペースと安全はなく、褒美も褒め言葉もない。一部の青色絵画の強面兄さん以外は、形は違えど、同じ色した身体の、多数のオッさん又は爺さん或いは友人達との会話が中心。どうでもいい、全く理論やイデオロギーのない日常の出来事や、一方的な感情混じりの愚痴や批判、自己中心といえば、そこでの会話を超えるものはないのではないかとも思える内容。 しかれども、その中にして、時折垣間見る地域の連帯的な、何とも表現出来得ない暖かみのある笑顔があることもまた、不思議な次元と空間である。

小一時間を経た段階で、周りを見渡せば、入室した時点での顔ぶれが殆ど変わっていることに気付く。兄もまた、いつしかいなくなっていることに気付き、過ごした時間の長さと無駄を思いつつ、脱衣所へと急ぎ移動する。当時として、煩くてウザい母たる、今の優しき想いの私の母、拭き取る水滴を受け止めてくれるバスタオルのフカフカは、今では亡き愛情の究極か、はたまた二度と得られぬ私の寳と尊敬なのか、微笑みと後悔と満足と憂えいと幸せと申し訳なさと究極の感謝が、今として一度に薄涙と共に込み上げてくる。気が付くと、兄が一人でコーヒー牛乳を飲んでいる。15円のその一本は、30円を貰った半額を使用してのこと。僕の分はと、兄に詰め寄る。チャリンチャリン、あらら、ポッケに忘れていた。詰め寄りながらも、お袋のチャリンチャリンが化けて、私の風呂上がりの一杯と為す。

さて、牛乳など乳製品嫌いの私としては、四角い瓶のフルーツ牛乳すら飲めず、やはりコーヒー牛乳を選択する。一気に飲み干したくて、左手に瓶を持ちながら、右手で輪ゴムのついた上部のビニールを剥ぎ取り、紙栓を伸びていない爪で取ろうとするのだが、やはり爪が伸びていないもので、何度も仕損じてしまう。見かねたのか、斜め前方からニコニコしながら知らないおじさんがガニ股でやって来、私からコーヒー牛乳の瓶を徐に取り上げるなり、短くて小さな千枚通しの様な細い器具で、一発開通させてしまう。開通したと思いきや、瓶をまたまた徐に私にある種乱暴に手渡すなり、またニコニコしながら向こうに去って行く。キョトンとしながらも、正に私にとってのある意味スーパーヒーローである。ひょっとして、私が三回吹く笛の音を感知したマグマ大使であったのかもしれない。いや、これは新しい限り、やはり2丁拳銃の、解けない謎を解く七色仮面ではなかったのか?大変失敬した、知らない読者も多かろうに。

さて、グイグイと飲み干すほど、まだ食道も胃も太く大きくない私ではあるが、こぼしてしまうくらいに慌てて飲み干さなければ、帰ろうとしている兄に追いつかない。ようやく、飲み干したぞと見渡せば、兄の姿がない。慌てて、下足札に石鹸箱しか入っていない洗面器片手に、使用後の下着を巻いたバスタオルを抱えたまんまの状況で、外に出て一通り周りの観察をしながら兄を探す。薄笑いが何なのか判らない兄に追いつき、いや、待っていた兄と共に、下り来る車のメインライトがやけに眩しく感じると共に、漫ろにペタペタと亀の如く歩きながら家路に着くのである。

月明かりが、そんなにも眩く、自然のプラネタリウムの天空を懐かしみながら、ランドセルの中の非完成を心配しながらである。そんな毎日な、母の命である身体の洗浄は、銭湯たる風呂屋という戦闘なのか戦場なのかと、今は駄洒落に置き換えては懐かしく回想する、謂わば、幼きにして唯一無二なる想い出に似た様なものであろう。

因みに後談することとしよう。
気が向いたので、後談するのだが、血の争えないと前述した事の後悔からは語らないまでも、些か勇み足な記述であった。しかし語らなければ、ここは避けて通ることが出来ないとするを認知し、覚悟の上、記述することとする。淋病は、三つ半歳上の兄である。


何故兄が淋病なのかは、高校生の自分には解らなかったが、シゲシゲとアルバイトに行き、自ら稼いでは何故か石鹸の匂いをプンプンさせて帰って来たと、母がよく言っていた。 そぉーいうことに、あまりにもピュア母であったので、当時のそんな母との会話を思い出しながらも、私の想像の確かさを自覚しながらも、血が争えない事を今更ながらに思い起こす始末である。えっ??読者諸氏には、何故に血が争えない事の形容を兄にと思われるのでは、と、考えるも、自然に当然に愕然と自らを語ること程、私は自信家ではない。所謂、いい子ぶりっこ、であろう。大変、恐縮する。


そして、私の今があるのは、お袋、そぉ、母の暖かき最大にして無二な愛情と断じて、記憶の存在が宝物なるが所以。銭湯に置き忘れた想い出の暖かきが、何故とは、実は兄な、その姿ではなく、『さっ、お兄ちゃんと早く行ってらっしゃい。ちゃんと洗うのよ。』と、優しきにして無二な、対価や受け得る利益や未来の自らの安楽を想定しない心な、まんまな心な、そんなかけがえのない特別な愛情の為せる技であり、業であるとも断じているからに他ならない。

微笑みと後悔と哀しみといじらしさと納得と恥じらいと心地よさと、そして慈しみと満足と憂えいと幸せと悔しさと申し訳なさと愛しさと究極の感謝は、私の永遠の心であり、今私が生きているという根拠な、生きているという実感は、母と私の魂そのものである。昭和の後半が始まって間も無き時代の、そんな私の垣間な生命の根拠でもあり、久遠(くおん)な生命の根拠でもある。

読者な貴方のお母様への御心は、果たして如何でありましょうか。

感謝。

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